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『オリエント急行殺人事件』アガサ・クリスティ

夕陽の中を走る列車

本書の概要

本作は、名探偵エルキュール・ポアロが登場する長編シリーズの代表作である。舞台となるのは、イスタンブールからカレー(フランス)を目指して走る、当時の欧州における豪華絢爛な長距離列車「オリエント急行」。

たまたま乗り合わせた名探偵と、国籍も身分も異なる乗客たち。優雅な旅路が一転、雪による立ち往生というアクシデントによって、逃げ場のない密室へと変貌する。

古典的なクローズド・サークル(閉ざされた空間)の形式を取りながらも、その舞台を移動する列車内に設定したことで、独特の閉塞感とスピード感を生み出したミステリーの金字塔である。

あらすじ

中東での仕事を終えた私立探偵エルキュール・ポアロは、イスタンブール発のオリエント急行に乗車する。真冬の閑散期であるはずが、なぜか一等寝台車は満席という奇妙な状況であった。

乗客の中には、アメリカ人の富豪ラチェットという男がいた。彼は何者かに命を狙われていると怯え、ポアロに護衛を依頼するが、ポアロは「あなたの顔が気に入らない」と一蹴する。

深夜、列車はユーゴスラビア領内で豪雪に阻まれ、線路上で立ち往生。静寂に包まれた車内で、翌朝、ラチェットの死体が発見される。

体には12箇所もの刺し傷があり、部屋のドアは内側から施錠されていた。雪に閉ざされ、外部からの侵入も脱出も不可能な状況。犯人は間違いなく、この車両に乗り合わせている乗客の中にいる。

ポアロは、鉄道会社の重役から依頼を受け、現地の警察が到着する前に事件を解決すべく、乗客一人ひとりへの尋問を開始する。
浮かび上がってきたのは、過去にアメリカで起きた悲惨な誘拐殺人事件「アームストロング家事件」との因縁であった。

所感

本作の最大の読みどころは、やはり雪に閉ざされた豪華列車という舞台設定だ。本来、駅についてもおかしくないはずの列車が、雪の壁によって外界から完全に遮断される。この物理的な「孤立」が、物語に強烈な緊張感と閉塞感をもたらしている。

警察も助けに来ない、犯人が逃げることもできないという状況下で、殺人犯と一つ屋根の下で過ごさなければならない恐怖。狭い通路、薄い壁一枚を隔てたコンパートメント。

物理的な距離の近さが、乗客たちの心理的な圧迫感を加速させる。食堂車という限られた社交の場で交わされる会話の裏に、それぞれの嘘と秘密が隠されている様は、息が詰まるような心理戦の様相を呈している。

また、貴族、軍人、家庭教師、使用人と、本来であれば交わるはずのない多様な階級の人々が、同じ列車に乗り合わせているという不自然さも、列車ミステリーならではの面白さである。

クリスティは、この特殊な空間を利用して、論理的なパズルのピースを埋めていく快感と、最後に訪れる衝撃的なカタルシスを見事に融合させた。

「正義とは何か」「法で裁けぬ悪をどうするのか」という重厚なテーマを投げかけつつも、エンターテインメントとして極上の完成度を誇る本作。結末を知っていてもなお、その旅路を辿り直したくなる名著である。