『佐渡』太宰治
本書の概要
太宰治は多くの短編集を残しており、ユーモアにあふれた作品がいくつもある。太宰作品のユーモアの根源は、人間の弱さである。太宰作品に「英雄」と呼べる人物はまったく出てこない。例えば、教科書に載っていた『走れメロス』は英雄譚のようにみえるが、メロスは最後まで人間であった。物語の定石としては人間の弱さを描く必要のないラストスパートまでもきっちりとメロスの人間らしさを描き切っている。
人間の弱さを主題にするのは、エッセイでも変わらない。『佐渡』は、太宰本人が冬の佐渡へ旅行に行ったときの話をもとにした紀行文である。
あらすじ
けれども船室の隅に、死んだ振りして寝ころんで、私はつくづく後悔していた。何しに佐渡へ行くのだろう。何をすき好んで、こんな寒い季節に、もっともらしい顔をして、袴をはき、独りで、そんな淋しいところへ、何も無いのが判っていながら。
『佐渡』より
初っ端から旅に出たことを後悔している。わざわざ寒い時期に佐渡へ行こうと決めて船に乗るのだが、船の上ではずっと「何しに佐渡へ行くのだろう?」と自問自答している。そんなのは読者が聞きたい。
寒いし、寂しい場所だし、意味がないし、そもそもふらりと旅ができるほど家の経済はよくない。それでも旅行をしてしまうのである。普通、この書き出しをしたら、なんだかんだ最後には「やっぱり来てよかった」という流れを期待してしまうが、そこは太宰治なのでそう簡単にはポジティブにならない。見栄っ張りも手伝って、始終何かに後悔しながら旅が進んでいく。
紀行文としてはよくできており、旅先で感じるちょっとした感情の機微を(かなりネガティブにだが)書き出している。例えば、以下の文だ。
まちは私に見むきもせず、自分だけの生活をさっさとしている。私は、のそのそ歩いている自分を、いよいよ恥ずかしく思った。
『佐渡』より
ここまでネガティブには受け取らないにしても、観光地ではない見知らぬ街に降り立った時の、「自分だけの生活をさっさとしている」風の空気感はよく分かる。
所感
太宰治の作品なので当然という感じかもしれないが、「この人、すごく生きづらそうだなあ」という所感が先行する。この場合は作者本人だが、自意識をこじらせている様子が延々と描かれていて、一周回って面白い。
紀行文としては素晴らしいのだが、わたしの知る限りこれほど「旅に出たいと思えない」旅エッセイを他に知らない。いや、冬の佐渡に興味は湧くけれども、旅の意欲を掻き立てることはまったくない。
凡才の筆力では、こんなに何も起きない、かつネガティブな紀行文を読ませることはできないだろう。落語や民話の語り口を取り入れることでネガティブさをユーモアに昇華させるという点にかけて才筆をふるった太宰治だからこその作品だと思った。
冬の佐渡に太宰と一緒に赴いて、後ろからついていって愚痴に付き合っては苦笑している気分になってくる。これもまた旅小説の楽しみ方の1つだろう。