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『岸辺の旅』湯本香樹実

湖畔

本書の概要

『岸辺の旅』は、湯本香樹実による静謐な長編小説だ。物語は、3年前に失踪した夫・優介が突然妻の瑞希のもとに現れ、「自分はすでに死んでいる」と告げる場面から始まる。にもかかわらず、優介は瑞希を旅へと誘い、生前に立ち寄った土地をふたりで巡る奇妙な旅が始まる。

この設定自体が非常に幻想的だが、描写のトーンはむしろ淡々としていて、現実と幻想の境が曖昧なまま進んでいく。読者は不思議な感覚の中で、瑞希と優介が辿る「もうひとつの時間」の流れに身を委ねることになる。

作品全体を包むのは、「死別の痛み」と「それを受け入れるまでの過程」でありながらも、そこには押しつけがましい感傷や説明は一切ない。静かな文体で綴られる旅の記憶は、読む者の心に波紋のようにじんわりと広がっていく。

あらすじ

物語の冒頭、瑞希の前に現れたのは、行方不明だった夫・優介だった。彼は瑞希に、「自分はもう死んでいる」と告げる。そして、なぜか自然な流れで、ふたりは彼の足跡をたどる旅に出る。

「でも、会いに来たよ。もう一度、君に。」

『岸辺の旅』より

旅のなかでふたりは、優介がかつて身を寄せていた町や村を訪ねる。そこで出会う人々は、優介が生前に関わっていた面々であり、それぞれに優介との時間を持っていた。新聞配達をしていた老人や、小さな食堂を営む夫婦、山間の集落で暮らす家族。ふたりはただ再会するだけでなく、その土地の空気を吸い、記憶の残る場所を歩き、ゆっくりと語り合う。

次第に、瑞希は夫の「死」を確かめるように旅を続ける。形のないものを受け入れていく行為は、時に苦しく、けれど穏やかでもある。この旅の終わりには、きっと何かが変わる。瑞希自身が気づいていなかった感情が、旅を通して少しずつ形になっていく。

所感

この物語は、明確な結論やカタルシスを用意していない。ただ静かに、登場人物の心の揺れとともに、旅が続いていく。だからこそ、読者はその余白に自分の感情を投影しながら読み進めることになる。

「死者との旅」という設定自体はフィクションだが、そこに込められた感情の質はとてもリアルだ。亡き人ともう一度過ごせたなら、何を話したいか。どこへ行きたいか。そんな問いが、ページをめくる手とともに心を動かしてくる。

湯本香樹実の文体は、あいまいさを許容する。説明しきらないことによって、むしろ読み手がその情景を補完したくなる。旅先で出会う人々の描写もあたたかく、決して物語の装置にはなっていない。すべてが、ふたりの旅の一部として自然に溶け込んでいる。

読み終えたあと、胸に残るのは「静けさ」と「やさしい余韻」だ。誰かを思い出しながら、もう一度最初のページを開きたくなる。そんな小説だった。