『伊勢物語』作者不詳

本書の概要
『伊勢物語』は、現存する中では最古の歌物語といわれる。作者が誰か分かっておらず、平安時代のいつ頃に成り立ったのかも明らかになっていない。謎多き作品である。
平安時代に実在した「在原業平」をモデルにしたような男性主人公が元服(成人)してから死ぬまでも、かなの文章と和歌をセットにして書き連ねる形式を取る。
見どころ
『伊勢物語』で有名な和歌といえばカキツバタの句だろう。主人公が友人と東国へ旅をする途中に八橋を訪れる。そこではカキツバタが咲いていたので、「カキツバタを頭に使って一句読もう」と思い立ってこう詠む。
東の方へ友とする人ひとりふたりいざなひていきけり、みかはの国八橋といふ所にいたりけるに、その川のほとりにかきつばたいとおもしろく咲けりけるを見て、木のかげにおりゐて、かきつばたといふ五文字を句のかしらにすゑて旅の心をよまむとてよめる
『伊勢物語』より
唐衣 着つつなれにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ
これは「主人公が詠もうと思って詠んだ句」とも「友人の無茶ぶりに応えて詠んだ句」とも読めるが、いずれにしても会心の出来すぎる。
この句には、まず「折り句」と呼ばれる手法が用いられている。5つの句の頭文字を繋ぎ合わせるとカキツバタとなるのだ。さらに、「萎れ(着慣れる)/慣れ」「褄(衣の裾)/妻」「張る張る/遥々」「着ぬる/来ぬる」とできうるかぎりの掛詞(ダブルミーニング)をつかい、句に内包する意味を限界まで詰め込んでいる、非常によく練られた句として有名だ。
これ以外にも面白いエピソードや句があるので、ぜひ一度じっくり読んでみてほしい。
所感
『伊勢物語』では、主人公すら名が明かされておらず「男」としか書かれていないほか、周囲の人物もほとんどが匿名で「女」や「人」などという書き方を取っている。誰がモデルかというのは何となく分かるが、明言はされない。
小説の技術的な話をすれば、匿名性はキャラクターから固有の性格を奪い、寓話性を高める意味を持つ。キャラクターを断定しないことで、読者が各々の想像を当てはめやすくなる効果がある。キャラクターを際立たせるのは重要だが、一方でキャラクターばかりに目が行き過ぎると、作者が本当に伝えたいテーマがかすんでしまったり、誤解を生んだりするというケースもある。
『伊勢物語』の場合には、人間関係や人情といった普遍的なテーマが一層際立っている。日本の古典としての紀行文というのは、物語性よりも詩的表現のほうに重きをおいている節もあって、そういう価値観の違いというだけかもしれない。とはいえ、時代を超えても変わらない普遍的なテーマが正しく伝わっているからこそ、現代まで語り継がれているのかもしれないと感じた。